周恩来総理記念詩碑

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雨中嵐山――日本京都

一九一九年四月五日

雨の中を二度嵐山に遊ぶ
両岸の青き松に いく株かの桜まじる
道の尽きるやひときわ高き山見ゆ
流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす
雨濛々として霧深く
陽の光雲間より射して いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
――模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば
真(まこと)にいよいよなまめかし

訳 蔡子民先生

解鋭

 周恩来は1917年(大正6年)9月から1919年(大正8年)4月にかけて日本に留学し、ことに最後の半年余は京都の友人宅に寄宿していた。
当時、京都大学経済学部にはマルクス主義の紹介と普及に大きな役割を果した河上肇教授が在職していたが、周恩来青年は河上の著作を愛読し、その影響を受けたと言われる。
 経済学部選科(選科は今日の聴講生のごときもので、入学手続きも簡便だった)への願書も河上の講義を聴こうとして提出したのであろうが、実際には入学しなかったと言われる。
 「雨中嵐山」の詩は、帰国を前に嵐山を訪れて作ったもので、その頃としてはきわめて斬新斬な新体詩(口語詩)であることは、彼が当時の文学革命運動(文語による旧文学に反対し、言文一致の国民文学を樹立しようとした運動)の先端的な実践者であったことの証左でもある。

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詩碑建立経過

 故周恩来総理は1917年に来日され、1919年までの青年時代の一時期を日本で過され、京都にも滞在された。京都滞在中、周恩来総理は新しい思想を知り、暗い世界の中で一点の光のような感動を受け、1919年4月5日、これを雨中嵐山という詩に表わした。
 1978年8月、日中平和友好条約が調印され、この条約調印を永遠に記念し、子々孫々にわたる友好を願う心を表わしたいという声が巻き起こった。そこで、京都にゆかりの深い、日中両国友好のために尽された周恩来総理の詩碑を建立しようという運びに至った。
 先ず、9月6日、日本国際貿易促進協会京都総局1978年度第一回役員会において正式に提案し、賛成を得た。又9月7日、京都日中科学・技術者交流協会役員会でも賛成を得た。吉村孫三郎 日本国際貿易促進協会京都総局会長(当時)の提案で、廖承志中日友好協会会長(当時)に碑文の揮毫をお願いすることにした。
 鄧小平副総理(当時)と共に来日された廖承志会長が10月27日京都に来られた折、吉村会長よりお願いし、揮毫の承諾を得た。11月24日、日本国際貿易促進協会京都総局が受け入れた中国科学院レーザー核融合視察組が京都市長あての廖承志会長の揮毫を携えて来日された。12月21日、吉村会長がこれを京都市長に届けた。
 京都の日中友好団体を中心に、詩碑建立委員会の設立準備が進められ、1979年1月22日、正式に設立され、第一回打合せ会が行われた。この会議で、建立委員会は、顧問を京都府知事、京都市長、京都商工会議所会頭にお願いし、委員長を吉村孫三郎 日本国際貿易促進協会京都総局会長とし、京都日中友好十団体を構成団体とすることを確認した。また予算、事務局所在地、事務局長なども決定した。2月13日、第二回打合会を行い、詩碑建立場所、副碑などについて話し合った。3月16日、地鎮祭を行った。
 1979年4月16日、ちょうどその時来日中であった鄧穎超女史(全国人民代表大会常務委員会副委員長、故周総理未亡人、当時)を京都にお迎えして、除幕式及び建立祝賀会を開催した。
 その後多くの中国国家要人が京都嵐山に来訪し詩碑を参観した。

周恩来記念詩碑を参観した中国国家要人はこちら(PDF)

 

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詩碑建立委員会

名称 周恩来総理記念詩碑建立委員会
住所 〒600-8411
京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町637 第五長谷ビル3階
日本国際貿易促進協会京都総局 内
TEL 075-354-0777・0770
FAX 075-354-0778

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詩碑絵葉書

事務局では下記5枚一組の詩碑絵葉書を販売しております。
売上金は詩碑の維持管理に充てられます。
購入ご希望者は下記申し込み書にてお申し込みください。

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費用について

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お支払方法

合計金額が1000円未満の場合は、切手(82、92円切手を主に)郵送可

合計金額が1000円以上の場合は、銀行振込みとし、振込料は購入者の負担

送付先

周恩来総理記念詩碑建立委員会
〒600-8411 京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町637 第五長谷ビル3階
日本国際貿易促進協会京都総局 内

TEL 075-354-0777・0770
FAX 075-354-0778

 周恩来総理

以下は、昭和61年(1986年)4月22日の讀賣新聞18面に掲載された「京都駅~建都千二百年へ」シリーズ特集の中で、「鄧小平と周恩来と~京都駅で別れた周恩来と呉翰濤が再開したのは17年後の中国、周は共産党、呉は国民党の代表だった」と題して紹介された記事である。

 中国の鄧小平副首相(当時)が京都駅十三番ホームに降り立ったのは、五十三年(1978年)十月二十六日午後六時三分だった。この年の夏、北京で日中平和友好条約が調印され、その批准手続きのための来日。東京での公式日程を終えた後の、リラックスした、そして、念願の京都入りだった。「ひかり81号」のクリーム色の車体に乗り込んだ小柄な鄧副首相は、柔和な笑みを浮かべながら「日本の技術はすばらしい。とくに新幹線はすごい。中国でも早く作らなければ」と感想をもらした。

足を止め天を仰ぐ
 晩秋の京はすでにたそがれから薄やみに移ろいかけ、ホームに降り立った鄧副首相は、出迎えた林田悠紀夫知事(当時)、船橋求巳市長(当時)夫妻らと固く握手を交わした。二階コンコースには日中友好関係団体のメンバーが「ようこそ、鄧おじさん」と小旗を振り、拍手を送った。鄧副首相はゆっくりとした足取りで小さく手を上げてこたえていたが、コンコース中央で突然、足を止め、天を仰いで大きく息を吸いこんだ。恩人、故周恩来首相の若き日の姿が脳裏をよぎったからだ。鄧副首相が師と仰いでいた故周恩来が、日本に留学中、無一文で京都駅に降りたのは二十歳の秋。出迎えたのは中学時代の親友、呉翰濤夫婦だけだった。

周恩来、貧窮し入洛
 周恩来は一九一七年(大正六年)天津の南開中学を卒業。中国は当時、軍閥が抗争を繰り返し、日本をはじめ欧米の軍靴の音が全土に響き渡っていた。周恩来は国を憂い、明治維新後、近代化に励む日本に学ぼうと東シナ海を渡航、東京高等師範学校を受験するため、東京で下宿生活を始めた。しかし、しばらくして、生活費を援助してくれた先輩たちが次々と帰国してしまい、貧窮。この時、面倒を見たのが、三高生の呉だった。周恩来は毎朝、一家のふとんを片付け、食事の支度をすることもあった。昼は円山公園、嵐山を散歩しては詩をよみ、夜は呉が定期購読していた川上肇の雑誌「社会問題研究」を読破した。現代中国史の権威、竹内実・京都大学人文科学研究所長はいう。「周恩来がはじめてマルクスに触れたのは、この時なんだ。中国革命の一つの流れは、京都から始まったんだよ」。

7か月後、帰国決意
 親友に頼りきった京都暮らしだったが、京都は若き周恩来の心をとらえて離さなかった。だがその生活も長く続かなかった。入洛約七か月後の一九一九年(大正八年)五月末、その数週間前、祖国では北京の学生らが結集、反日デモを繰り広げ、千人を超える学生が逮捕された。五四運動である。周恩来はこの時、母国の友人から手紙を受取った。文面は短かった。「わが国の危急存亡の折、学業を続けて何の役に立つのですか」。周恩来は帰国を決意。呉の妻がイヤリングを売って旅費を作った。

親友と皮肉な再会
 別れの京都駅。大正三年に新築されたばかりの二代目駅舎はルネサンス風の堂々たる建物。呉夫妻の見送りを受けて二番ホームに滑り込んでくる列車に足を急がせた。周恩来は振返って呉に「じゃあ、またいつか会おう。世話になった」と手を握りしめた。「きっとな」とうなずく呉。列車が発車、乗り込んだ周恩来は車窓から身をのり出し、夫妻の姿が小さくなるまで見ていた。遠ざかる東山連峰が涙でかすんだ。この二人の親友が再会するのは、それから十七年後の西安。将軍・張学良が蒋介石を監禁するという西安事件が起き、この時共産党の代表として和解交渉にあたったのが周恩来、国民党の代表が呉だった。歴史は二人に皮肉な再会を用意していた。 「周恩来は、対日問題では、とても穏やかな考え方を持っていたんだ。時々、国内向けに厳しいことも言っていたけどねえ。京都での生活がよほど思い出深かったんだと思うよ」。竹内所長は三十年、北京で周首相と対談した時、そう思ったという。「片言の日本語で”おいしい”と言ったんだが、意味が通じない。よくよく聞いてみると、日本の女性の和服姿は”きれい”と言いたかったんだね。きっと、京都の女性を思い浮かべたんだろう」。周恩来は戦後、日中友好のレールを敷き、五十一年一月八日、ガンのため、北京で死んだ。

雨中嵐山の記念碑
 鄧副首相は、パリ留学のとき、周恩来と知り合った。「毛沢東の後継者」と言われながら、文化大革命のあらしの中、三度失脚。そのたびに周恩来に助けられ、副首相の地位を得た。周恩来の遺志を継ぎ、平和友好条約を締結した鄧副首相は入洛した翌日、周恩来ゆかりの嵐山に足を運び、感慨深げな表情を見せたという。その三年後、この地に周恩来首相を記念して詩碑が建立された。その碑には、マルクス主義をもって国を再建しようと帰国を決意した時の詩「雨中嵐山」が刻まれている。そして、京都駅の特別室には今も、鄧副首相が書き残した「友好」の色紙が飾られている。


以下は、1995年5月31日の京都新聞20面に掲載された「町かどのモニュメント」シリーズ特集の中で「周恩来詩碑」と題して紹介された記事である。

 「雨中嵐山」は中国の指導者・故周恩来首相が一九一九年四月、留学先の京都で詠んだ詩である。
 周恩来は当時21歳、一年半にわたる留学から帰国直前だった。東京の大学に学んだ後、京都の友人宅に下宿していた。多感な青年は春の嵐山で、迷いを吹っ切る一筋の道に思い至った
のかもしれない。
 事実、周青年は帰国して南開大学に入学後、学生蜂起に加わる。その後、さらにフランス、イギリス、ドイツに再留学して24年に帰国、複雑な中国の政治情勢の中で、一途に革命の指導者として「光明」に向かって歩みを進める。
 「雨中嵐山」の詩の17年後、長征中の周恩来に会ったジャーナリストのエドガー・スノーはその著書「中国の赤い星」の中で「周は冷静で論理的で経験主義的発想の持ち主であるという印象を与えた」と書いている。さらに「強靭で、あご髭をはやしたみじんも感傷主義を感じさせない戦士にはめめしいところは全くなかった。しかし、魅力があった」と描写している。
 周恩来は日中国交正常化交渉でも大きな役割を果たした。詩碑は日中友好のシンボルとして、周恩来の死後三年目の1979年春、嵐山・亀岡公園に建てられた。除幕式には夫人の鄧穎超女史も出席した。名勝・嵐山は平安時代から多くの詩歌に詠われた。雨に洗われた嵐山は一段と鮮やかさを増し、保津川・大堰川に映える山の四季が訪れる人々の心をとらえる。


以下は、1999年11月24日の京都新聞夕刊10面に掲載された「“雨中嵐山”中国人に人気」と題して掲載された記事である。

 京都市右京区嵐山にある中国の故周恩来首相の記念詩碑が、今年で建立されて20周年になる。ちょうど八十年前、周恩来が京都で学んだ際に嵐山を訪れてつくった「雨中嵐山」の詩が刻まれているが、紅葉に囲まれた観光シーズン真っ盛りの今も、旅行やビジネスで来日した中国人らがわざわざ足を運ぶ場所として人気を呼んでいる。
 周恩来元首相(1898-1976)は1917(大正6)年9月に来日し、一年七カ月にわたり早稲田大学や京都大学などで授業を聴講した。「雨中二次遊嵐山」(雨の中を二度嵐山に遊ぶ)で始まる詩は、帰国直前に詠まれ、日本で新しい学問に触れた喜びが表されているとされる。
 記念詩碑は日中平和友好条約が締結された翌年の1979(昭和54)年4月、日本国際貿易促進協会京都総局や京都府日中友好協会などの建立委員会によって嵐山の亀山公園に建てられた。
 これまで中国の国家副主席ら、来日した要人の多くが嵐山を訪れてきた。昨年は周恩来生誕百年を迎えたこともあって、多くの中国の一般旅行者も足を運んでいる。
 南京から農業の研修で愛知県を訪れ、帰国前に寄ったという厳英龍さん(58)は「碑が見たくてわざわざ来ました。詩には革命者のロマンチシズムが感じられる」と感慨深げ。台湾の旅行会社員で、6人を案内してきた林俊男さん(45)は「政治家というより文学者としての雰囲気が出ている」と話した。
 地元の観光業者らでつくる嵐山保勝会では「中国からの旅行者が最近増えてきたようだ」と話す。日本国際貿易促進協会京都総局は「中国が経済的に豊かになってきたので、訪れる人も増えているのでは」と推測している。


南開大学に周恩来研究センター設立
 〔天津1997.6.14発新華社=中国通信〕中国の大学で目下唯一の周恩来研究センターがこのほど母校の南開大学に正式に設立された。
 中国共産党中央文献研究室顧問の李琦氏、有名な中国系英国人作家ハン・スー・イン女史が同センターの名誉主任に就任した。
 南開大学周恩来研究センターは旧周恩来研究室を母体に、同大学の政治、経済、歴史、中国語、観光などの学科の研究陣を集めて設立されたもの。さらに周恩来研究で成果をあげ、貢献のあった内外の専門家、学者、一般人を客員研究員に招いており、これを基に同センターを周恩来研究の学術センター、資料センター、周恩来精神を広める教育センター、内外の周恩来研究の連絡、交流センターにしていくという。
 同センターでは周恩来の政治、軍事、外交、経済思想の研究に力を入れる。
 周恩来生誕百周年を記念するため、同センターはいま来年三月に天津で開かれる周恩来生誕百周年記念国際シンポジウムの準備に積極的に参加している。

上海、周恩来生誕100周年で記念青銅透光鏡が発売
 〔上海1998.2.3発新華社=中国通信〕上海市は先ごろ周恩来生誕100周年(3月5日)を記念するため、「周恩来生誕100年記念青銅透光鏡」を製作し、内外で売り出した。
 記念鏡は西漢(前漢)の「青銅透光鏡」と同じように、銅鏡を使って人工的に研磨したもので、周恩来の生誕100周年を記念するために、直径は100㍉になっている。記念鏡の鏡面は、西漢の「透光鏡」の原理を使い、ハイテクを応用して磨き上げたもので、いかなる画像も文字も確認できないが、太陽光が鏡面に照射されると、周恩来の肖像画と「人民的好総理」(人民の素晴らしい総理)という6文字が浮かび上がってくる。鏡の背面の紋飾は西漢の「透光鏡」の背飾と同じものが使われており、「長相思、母相忘、十里長安街、一代中華魂」という16文字の銘文が刻まれている。記念鏡は特に高い収蔵価値を持っているため、1万枚の限定販売となる。それぞれの鏡に、編号と上海交通大学の盛宗教毅教授の署名が入っており、公証部門の証書も付いている。

日中国交正常化20周年を記念して「周恩来展・京都展」が1993年3月24日から31日まで、京都府総合見本市会館「パルスプラザ」で開催された。主催は、周恩来展京都展実行委員会、中国日本友好協会、中国革命歴史博物館、日本国際貿易促進協会京都総局、京都新聞社。
以下は、その展示冊子の図版目次から表題と説明を抜粋したものである。


  1. 中華の興隆のために勉学
     19世紀の末期、周恩来は内憂外患の中国に生まれた。激動する時局と衰えゆく家運は、幼い周恩来に世事の艱難を体験させ、その堅忍不抜にして俊敏な性格を磨きあげた。
     彼は暗黒の社会をいたく憎み、社会を改造する激情に燃え、はるか東北に赴き、天津に学び、日本へ留学し、中華の興隆のために勉学に励んだ。
  2. 中華民族の解放のために献身
     20世紀の20年代から40年代にかけての中国は、波瀾万丈の激動期にあり、大浪が砂を洗うように、無数の英雄豪傑をえり分け、育てた。
     周恩来ら一群の先進的知識人は、探究、比較を経て、社会主義こそ中国が民族の解放および国家の独立と強大を勝ち取る唯一の道であることをはっきりと認識した。そしてそのために、周恩来ら共産主義者たちは28年にわたる艱難に満ちた闘争を繰り広げた。周恩来はその非凡な胆力と卓越した才能をもって、中国革命の中堅となり、毛沢東らとともに中国人民を指導して近代中国の動乱の局面に終止符を打ち、中華人民共和国をつくりあげたのである。
  3. 中国人民の総理
     周恩来は命のともしびが消えるまで、26年の長きにわたって中華人民共和国の総理をつとめた。氏は全精力を傾け、思考をめぐらし、心をこめて国を治め、誠をもって人に対し、広く友人と交わり、知識を尊重し人材を大切にし、現実に世界に深く入り、心はいつも人民のことにを気に掛けていた。中国人民は心の底から氏を敬し、「人民の良き総理」とたたえている。氏の偉業は新中国の歴史に深く刻まれている。
  4. 傑出した外交家
     周恩来は、新中国外交の偉大な開拓者である。氏は、政策の決定者、指揮者そして実践者として、並々ならぬ精力と才能と知恵をもって、中国外交事業のために不滅の功績をうち建て、国際的経済文化交流と各国人民との間の友情を発展させる上で、傑出した貢献をした。外交的には芸術的ともいえる卓抜な手腕と誠実な風格は、全世界が認めるところであった。
  5. 周恩来と中日国交正常化
     中華人民共和国成立以後、中日両国関係の発展には周恩来の心血が限りなく注がれてきた。氏は節目となる時期ごとに、政治三原則、貿易三原則および国交回復三原則など中日関係の発展を導く一連の重要な原則を提起した。五十年代には「民間が先行し、民をもって官を促す」方針を提起して、中日貿易と文化交流のルートを切り開いた。六十年代には漸進と積み重ねの方式を提起して、中日関係を半官半民の時期に推し進めた。七十年代には、両国人民の共同の努力のもとで、時機を失することなく中日国交の正常化を推進し、両国人民の長年の願望を実現させた。
  6. 非凡なる偉人
     周恩来は中国近代史の偉大な人物である。氏は人民とともに呼吸し、心を通わせていた。氏は数十年一日の如く、つねに勤倹節約、刻苦奮闘の作風を保ち、己を厳しく律し、他人に対しては寛大であった。氏は広い知識をもち、才能は衆に秀で、情操は高尚で人格は立派であった。中国の人民と世界の友人の心の中にいつまでも生きている。
  7. 中日両国人民は、過去を継承し未来を開拓して、子々孫々にわたり友好的につきあっていこう。

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